文化・芸術

2011年12月12日 (月)

■12月12日は小津安二郎監督の誕生日、そして没月日。

Photo_5 ◇今日、12月12日は小津安二郎監督の生誕日であり、没月日である。小津監督は1903年(明治36年)から1963年(昭和38年)までの満60歳、いわゆる《還暦》で亡くなった。小津さんは生前に「還暦で死ぬ」と自分自身、公言していたという。2013年は小津安二郎監督の没50年である。

◇還暦とは、《生まれた時に帰る》という意味。小津映画の源流にはこの《生と死》の還暦の思想が流れている。

◇今日は小津安二郎監督ゆかりの各地で小津さんに関する講演や催事が行われている。生誕の江東区深川では、年明けの1月7日(土)から9日(月・祝)の三日間、古石場文化センターで『第5回江東シネマフェスティバル』が開催される。

◇この映画祭は市民サポーター20名程のメンバーが一年かけて、毎年テーマを決めて小津映画を中心に映画を選択しているところに特徴がある。今年は、3.11東日本大震災で沈んだ日本人の心の復活を祈願して《シネマでつなごう、日本の心》というテーマで編成した。

◇シネマサポーターの一人として2010年第3回から参加させていただいている。小津映画は深く知れば知るほどに奥が深い。合わせて、《深川》という地は江戸文化の源流で歴史・文化の面からも日本のへその緒のようなところではないかと思うようになってきた。

◇このきり絵は、深川で生まれ深川の大手メーカーで技術者として働き65歳定年から始めたという新進のきり絵作家馬場哲弥氏の作品である。パソコンで【白・黒】の原画を起し、カッターで切るという独自の技法で創られている。傑作の現代アート作品である。

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2011年1月27日 (木)

■巨匠・小津安二郎“秘められた恋”物語

□巨匠・小津安二郎の“秘められた恋”

平成16年1月1日「陽岳寺護寺会便り」(№57)『小津安二郎』 について(住職)

Photo_12 「それは、2年前(=平成14年)ぐらいの今頃の季節だった。たしか四十年ぶりの墓参で足がおぼつかなくこれが最後かもしれませんが、小津家の墓をお参りしたい と、一人の大柄なお年寄りの婦人が訪ねてきました。」
「数日後に墓参に訪れた長谷川先生が 『森さかえ』と記したお塔婆を見つけて、そこで初めてその老婦人が小津安二郎の“小田原の女性”と聞かされた。」

Photo_13 東京深川・陽岳寺の小津家墓前で「森さかえ」 と記した新しいお塔婆を発見した長谷川武雄先生とお塔婆。

Photo_14平成18年10月19日「朝日新聞」(夕刊)「窓」論説委員室「小津のお守り」(河谷史夫氏)

「小津には31歳で知り、「栄」(さかえ)と日記に書く恋人がいた。一回り年下の、当時は小田原の芸者である。大陸へ出征する際、三島駅で渡された「お守り」を、肌身離さず持ち歩き、復員してから「お陰で無事に戻れたよ」と栄さんに返している。」

「笛と踊りの名人で、背が高く、きりっとした性分の、よく気のつく人であったという。原節子と結婚かという世間のうわさをよそに、周りは栄さんと一緒になるものと思っていた。小津が母と住んだ北鎌倉の終のすみかも、栄さんが探した家であった。」

「小津の生誕100年の前(2002年)にインタビューを申し込んだが、「そのうちに」といなされた。…この秋の、突然の訃報に接した。享年92歳。」

小津日記には、頻繁に「築地森、泊」と記している。森さかえ(栄)さんは、築地で旅館経営をされていた。おそらく周りの人たちは、小津さんの築地の定宿と思っていて、女将さんとの恋人関係は知らなかったのではないだろうか。

なお、深川・陽岳寺はご両親のお墓で小津安二郎氏の墓は北鎌倉「円覚寺」にある。墓標には『無』一文字が彫られている。

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2011年1月23日 (日)

■巨匠・小津安二郎“麦秋の恋”物語

□小津安二郎と原節子の二人はなぜ生涯独身Photo_3を貫いたのだろうか?              

◇古石場文化センターに出展した馬場哲弥さんの原節子さんと小津安二郎さんの肖像作品を再出展させて頂いた。二人が生涯独身を貫いた真実は第三者には到底分からないこと。不条理を思いつつ、一緒に並べて飾ったところ皆さんに観て欲しかった。馬場哲弥さんは制作しながら、小津さんの優しい眼差しには人間性の豊かさを感じた。原さんの美しい顔かたちには手が震えましたと感想を述べていた。

◇小津安二郎には主人公・紀子=原節子を主演にした三本の松竹映画作品がある。『晩春』(1949年/昭和24年)、『麦秋』(1951年/昭和26年)、『東京物語』(1953年/昭和28年)の三作品、いわゆる『紀子三部作』である。いずれもキネマ旬報でトップランキングされて、監督賞と主演女優賞を受賞したものである。

◇『晩春』に引き続き原節子が『麦秋』に起用されたことから二人の結婚説が広がった。小津日記1951年(昭和26)11月17日付「このころ、原節子との結婚の噂しきりなり」と本人自身が記している。

◇原節子は1963年(昭和38)12月の小津安二郎の葬儀に姿を見せた以降は公の場からは身を引き、ひっそりと鎌倉市内に隠棲生活。今年2011年6月17日に91歳を迎える。

Photo_18◇小津安二郎には“秘められた恋”物語があった。築地旅館の女将『森さかえ』との秘められた恋物語である。それは、深川・陽岳寺の小津家墓に捧げられた新しいお塔婆『森さかえ』の発見で明らかになった。小津さんが31歳(1934年/昭和9年)の時に知り合った一回り年下の、当時小田原の芸者である。

◇発見者は、長い間江東区深川で教職を務められた長谷川武雄さん。全国小津ネットワーク会議初代会長で江東区古石場文化センターに小津安二郎コーナーの開設と江東シネマ倶楽部の創設に尽力された。その功績で江東区文化・スポーツ功労章を受章している。新進きり絵作家馬場哲弥さんの恩師です。

◇小津さんが大陸へ出征する際、三島駅で渡された「お守り」を肌身離さず、復員の際「お陰で無事に戻れたよ」とさかえ(栄)さんに返しているという。平成18年10月19日付朝日新聞夕刊「窓」コラムに「小津のお守り」の題で河谷史夫氏が紹介している。近く、文藝春秋からノンフィクションで刊行されるとのこと。                            

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■新進きりえ作家馬場哲弥の世界

Rimg0922馬場哲弥さんは、65歳会社退職を起点にきり絵作家を目指す。パソコンソフト「2値化」プログラムで白黒の版下を作成してきり絵にする独自技術を習得。初めての個展が深川の二か所で行われた。                   ①テーマ:江東シネマフェスティバル同時展示、会場:江東区古石場文化センター、会期:1月8日~10日、②テーマ:海外の風景、会場:㈱前川製作所エントランスホール、会期:1月17日~21日

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□2010年グッドデザイン賞受賞ビル
特別展示:株式会社前川製作所 新本社ビル(2010年グッドデザイン賞受賞)のきり絵、写真とは違った味わいがある。

□新しい角度で見た深川・富岡八幡宮

Photo_9  前川製作所新本社ビルから見た富岡八幡様の赤い「三つ巴」紋章が印象的。きり絵と台紙との間に入れた色紙を浮き出す技法が生かされている。

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2011年1月11日 (火)

■『第4回江東シネマフェスティバル』サポーターに参加して

~熱心な映画ファンに支えられて盛況に無事終了~

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◇2011年1月8日(土)~10日(月)3日間開催された『第4回江東シネマフェスティバル』を盛況に無事終了することができた。開催準備のために昨年5月から毎月の定例サポーター会議に出席。無事終了できたことにサポーターの一人として足を運んでくれた大勢の観客、映画ファンに感謝したい。3日間、近くのホテルに宿泊して通われた熱心なお客さんも数人いた。

◇退場時「ありがとうございました」「昭和の映画はよかった」「あれが日本のお母さんだよね」等の短い会話やコメントにサポーター名利につきる。お客様の満足あっての映画祭である。

◇この映画祭は、毎月開催している古石場文化センター『江東シネマプラザ』の年行事として行われている。今年で4回目となる。サポーターとしては昨年2010年(第3回)に続く2回目の参加である。

◇『江東シネマプラザ』は、小津・黒澤・溝口の三大巨匠と賞され、世界の映画人にますます高い評価を得ている映画監督『小津安二郎』の生誕地である「深川」をテーマに江東区古石場文化センターが10余年前から毎月開催されている。映画祭は毎月の『江東シネマプラザ』観客に支えられている。

◇この映画祭は、①江東区が文化政策として公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が区内7か所で運営する文化センターのひとつ『古石場文化センター』が公募した江東区在住市民ボランティアサポーター(20人)方式で企画運営されていること。②昭和初期の弁士・楽団付無声映画の上映に力を入れていること。③目が不自由な方にも映画を楽しんでいただくため、音声ガイド付映画の上映にも力を入れていること。④出演俳優や監督によるゲストトークショー。⑤古石場文化センターを拠点として活躍する諸文化サークルの参加で構成されている。

◇第4回江東シネマフェスティバルのプログラムは次の通りである。

【一日目】1月8日(土)

10:00「東京物語」監督・小津安二郎/1953年(昭和28年)松竹大船

14:30「無声映画特集」①「チャップリンの放浪者」(弁士:斎藤裕子)

           /監督C・チャップリン/1916年(大正5年)/米国

     ②「御誂治郎吉格子」(弁士:澤登 翠)

     /監督伊藤大輔1931年(昭和6年)/日活

17:30「キネマの天地」監督・山田洋次/1986年(昭和61年)松竹

【二日目】1月9日(日)

10:00「しゃべども しゃべれども」(音声ガイド付)

     監督・平山秀幸/2007年(平成19年)制作・しゃべれども しゃべれども製作委員会

13:00「おかあさん」

     監督・成瀬巳喜男/1952年(昭和27年)新東宝

16:00「泥の河」(ゲスト:小栗康平)

     監督・小栗康平/1981年(昭和56年)木村プロダクション

19:30「東京キッド」

     監督・斎藤寅次郎/1950年(昭和25年)松竹大船

【三日目】1月10日(月・祝)

10:00「喜びも悲しみも幾歳月」(音声ガイド付)

     監督・木下恵介/1957年(昭和32年)松竹大船

14:00「約束」

     監督・斎藤耕一/1972年(昭和47年)斎藤プロ

16:30「彼岸花」(ゲスト:有馬稲子)

     監督・小津安二郎/1958年(昭和33年)松竹大船

以上

プログラム詳細は「マイフォト」サイトをご覧ください。

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2011年1月 2日 (日)

■三つ巴の閉塞社会、実は潮流は変貌している。

~デジカル(=デジタルカルチャー)に抵抗して「映像人間」になる~

Photo_5 今、日本は『中国文明』と『西洋文明』を両端にして「三つ巴」状態にある。正にDNA構造のらせん模様状態にある。閉塞状況にも見えるが、実は日本はこのような「三つ巴」状態の中で『日本文化』(国境を超えると『日本文明』といえる)を形成してきた。飛鳥時代の律令国家形成には「中国文化」を取り入れた。その際、聖徳太子は中国の道教を採用しないでインドの「仏教」を採用した。江戸時代に入って、「鎖国」政策で国を守り、「江戸文化」を成熟させた。明治時代に入って「西洋文化」を取り入れ、近代国家を形成した。日清・日露戦争を経て第二次大戦で敗戦を知るが、廃墟から復興を遂げた。良い意味でも悪い意味でも日本国家は「三つ巴」の中で再生してきた。

2011年7月からテレビは《アナグロ》から《デジタル》に切り替わる。その切り替えに抵抗してできるだけ遅く2011年7月いっぱいまで買い換えないと思っていたが、今、使用中の我が家のアナグロテレビが12月に入って文字通り“プッツン”と切れた。これ以上抵抗しようがない。従来の放送型テレビ購入に拘る妻に、デジタルテレビ内臓型パソコンに切り替えることの意義について説得中である。しばらくテレビがない生活を経験することになる。

世の中はデジタル化が深化する。新しい潮流【デジタル文化】(第三の波=情報社会)の台頭である。その潮流の変化を認めつつ、人間はその中身まで《デジカル》(=デジタルカルチャー化の意味=デジタルをデジカルと入力ミス。意外と新しい発見となった)になってしまうことには抵抗しなけばならない。社会の変化とは逆に人間自身はアナグロ=映像人間にならなくてはいけない。最近、小津安二郎映画の源泉と意義がそこにあることに気がついた。

1903年(明治36年)に深川に生まれた小津安二郎監督は、10歳の時に父親の郷里・三重県松阪に転居。幼年期の10年間を東京・深川で、少年期の10年間を三重・松阪で暮らしたことになる。20歳の1923年(大正12年)3月に東京深川に戻り、松竹蒲田撮影所に入所する。その半年後の9月1日に関東大震災に遭遇する。1945年(昭和20年)終戦を迎える。

小津安二郎監督は、肥料問屋・小津家と分家との栄枯盛衰を知るとともに関東大震災や終戦を経験する。世の中の「無常」をしりつつも戦後復興に「希望」を見出す。「無常」と「希望」という「矛盾」を乗り越えて、それらを「映画」の中の「家族」を通して考え、その思想を「映像」に封じ込めた。小津監督の映像思想の源泉は次の分かりやすい言葉に表現されている。

『なんでもないことは流行(はやり)に従う、重大なことは道徳に従う、芸術は自分に従う』

2011年念頭にあたって、小津巨匠に彩かって、小津安二郎映画を観ながら《音像と映像=アナログ人間》になることを目標にしたい。

そして、今年はもう一つの目標がある。男声合唱隊「パパス・コーラス」一員として5月28日の亀戸・カメリアホールでの第一回自主コンサート公演を成功させたい。

URL http://www.papas-chorus-fukagawa.com

URL   http://www.aqua-planet.net

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■伊勢神宮初詣は大雪で例年の四分の一

~新年明けましておめでとうございます~

今年も毎日新聞旅行主催『京都をけら火詣でと伊勢神宮(外宮・内宮)初詣』のセットツアーに参加。三年目の参加である。天気予報によると、31日から元日にかけて全国的に大雪の予報があったので、寒さ対策を充分にして東京駅丸の内側13時出発のバスに乗り込んだ。

中央高速道路途中順調であったが、関ヶ原から怪しくなり米原で完全に雪模様になりその先がストップということから一般道路に降りたが、前方同じ様そうで完全に渋滞。状況判断で31日の京都・祇園コース(八坂神社をけら火詣でと智恩院除夜の鐘)は諦めてコース変更。三重・伊勢神宮直行となった。状況は一緒。伊勢神宮・外宮に着いたのは元旦午前12時30分。外宮詣りも予定一時間となる。

“今年は外宮にいます”という友人の幅泰治さん=去年から神宮裏方ボランティアに参加している=からの連絡が入っていたので注意して外宮に向かうと、鳥居を潜った最初の【焚き火】に白装束姿で居た。新年の挨拶をして別れた。大雪のため今年の伊勢神宮初詣客数は例年の四分の一とのこと。帰りには移動していなかった。彼とは江東区2006年度環境講座講師、森の伝道師・宮脇昭先生の講演会等を通しての付き合いである。共鳴はパワースポット総本山の伊勢神宮まで来てしまった。

2010年江東区観光ガイド講座【深川コース】を学習。半年の講座全カラキュラムとガイド実習を終えて2010年12月に合格証を頂いた。江東区観光ボランティアガイド登録資格が得られた。小津安二郎の生誕地・深川の歴史と文化の知識を踏まえて実践観光ガイドを深化させたい。

観光を軸に【土地文化】を知ることは重要である。2011年初頭にあたっての三年目の勢神宮初詣は意義深いと考えている。富岡八幡宮と伊勢神宮との関係は伊勢人でもある深川生まれの映画監督小津安二郎を理解する上にも欠かせない要因である。そして日本文化のルネッサンスとなった【江戸文化】(第一の波=農業社会)を知ること。隅田川を超えた【下町深川】はその文化の中心であった。富士山を背景に広大な関東平野に広がる江戸幕府形成過程と江戸文化を知ること。

【明治維新】とともに【西洋科学・文化】(第二の波=工業社会)によって強引に切り捨てられてきた【日本文化】は江東区深川に今も残っている。神道・仏教・儒教の精神とその要因となってきた生活の中の【行事】、【旧暦】、【史跡】に見ることができる。温故知新=故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る(論語)。八幡様のシンボルマークでもある【三つ巴】や【富士信仰】や【神仙思想・蓬莱】といった【日本文化】を耕して知る。新しい文化の創造に欠かせない。

URL http://www.papas-chorus-fukagawa.com

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2010年12月26日 (日)

■松井久子監督『レオニー』を観る

~松井久子監督自身の国際感覚が活かされた映画~

松井久子監督の第三作『レオニー』を観た。2010年11月からの全国ロードショー公開に先駆けて2010年10月29日江東区古石場文化センターで松井久子初監督『ユキエ』上映とトークショーで紹介された映画である。期待通りの映画であった。今世紀初頭、明治時代の日米の谷間にあって自らの意志で未来を切り拓いてゆく日系アメリカ人・天才彫刻家イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアの人生を描いた映画である。

松井久子監督は、早稲田大学文学部演劇科卒業後、雑誌編集及びライターとして活躍。俳優マネージメント会社やテレビ番組の企画制作を経営を経験しながら1998年に処女作『ユキエ』、2002年に第二作『折り梅』を公開。人生と仕事をステップアップしながら自分自身の映画づくりにこだわって制作準備に七年を費やしての第三作の作品である。彼女のプロジューサー経験と国際感覚とが調和した良い映画であった。レオニー・ギルモア役のエミリー・モーティマーと、詩人・野口米次郎{1875年(明治8年ー1947年(昭和22年)}役の中村獅童のキャスティングが良かった。

岐阜・飛騨の生まれで生誕地は異なるが、東京・深川育ち。深川生まれの小津安二郎監督と同じ日本文化の翻訳者(=適当な言葉がない)として今後を注目したい。

観光ガイド「小津コース」資料として『全日記 小津安二郎』(田中眞澄編纂)に目を通していた時に『イサムノグチをみる』と記していたのを偶然見た。その時は【年月日】までは記憶していなかったのだが、『レオニー』を観るに当たって気になったので図書館から再度借りてきた『全日記』で確認すると、昭和27年(1952)10月18日(土)となっていた。「鎌倉電話局」に行った後、「イサムノグチをみる」と記している。その場所は記していない。

しかし、欧米文化を取り入れたばかりの黎明期の明治時代にすでに英詩を書く日本人が海外にいたとは知らなかった。

“勇(いさむ)ちゃん”が活躍する『麦秋』封切りは1951年10月3日。すでに完成していた。小津安二郎{1903年(明治36年)-1963年(昭和38年)}とイサム・ノグチとは全く同世代である。従って、ノグチ・イサム{1904年(明治37年)ー1988年(昭和63年)}の米国での活躍は当然知っていたはずである。勇ちゃんのネーミングのヒントはイサム・ノグチから来ていたのではないだろうか。ただし、野田市制60周年記念『麦秋祭』講演した出演時5歳、今65歳の城澤勇夫氏のエピソードによると予定した役名では反応が悪く、「勇ちゃん」と呼んだ時に素直に演技をしたので「勇ちゃん」となったと話していた。

偶然が男女の出会いをもたらし、結婚や人生のきっかけとなると『レオニー』でも語っていた。イサムの妹・アイリスは中村雅俊さん演じる茶道の先生の申し子であろうが、その後どのような人生をおくられたのだろうか。

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2010年10月31日 (日)

■深川育ち松井久子監督初作品「ユキエ」上映とトーク~

~松井久子初監督「ユキエ」上映と新作「レオニー」を語る~

◇新進女流監督・松井久子は1946年岐阜県飛騨生まれ。豊洲小学校、深川五中、大学生一年まで深川育ち。早稲田大学文学部演劇科卒業後、雑誌の編集者・ライターとして活躍。1979年、俳優マネージャーのプロダクション会社を設立し独立。1985年に株式会社エッセン・コミュニケーションズを設立、テレビドラマやドキュメンタリー番組のプロデューサーとして活躍。1988年、『ユキエ』で映画監督デビュー。その演出力が認められて、2002年には第二作品『折り梅』が公開され、2004年には観客動員100万人を超えた。第三作は、彫刻家イサム・ノグチの母親レオニー・ギルモアの生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。約7年に渡る企画・取材と資金を集めながら2010年春に完成。2010年11月20日より、全国公開される。

それに先立ち処女作品「ユキエ」(1997年)が10月29日江東区古石場文化センターで上映された。上映後、監督松井久子は処女作品誕生のいきさつと作品に対する想いが語られた。

映画「ユキエ」は、制作(プロジューサー)として新藤兼人に監督のお願いにお伺いしたら、「女流監督を目指しなさい」とあと押しされるかたちで監督になった最初の作品。主題歌に使われている、あの有名な『ユア・マイ・サンシャイン』作曲のジミー・デイビスは、ルイジアナ州知事を二度も努めた人で、歌は制作当時1997年、彼が97歳の時のものであるという。

空軍パイロットで日本に赴任していた夫・リチャードと出会い、戦争花嫁として海を渡ったユキエはルジアナ州バトンルージェで40余年を生き抜いてきた。二人の子供に恵まれながらも突然、アルツハイマーに侵されてしまうが、これは愛する人との“ゆっくりしたお別れよ”と、「スロー・グッバイ」の言葉を残す。この言葉は、同病のレーガン大統領を介護したナンシー夫人の言葉であったという。

◇新作『レオニー』は、米ロサンゼルス生まれの日系アメリカ人、彫刻家イサム・ノグチ、日本名:野口 勇(1904年-1988年)を育てた母親レオニー・ギルモア(Leonie Gilmour)の生涯の物語。父親は愛知県生まれの詩人で慶應義塾大学の教授の野口米次郎。自分の詩を英語にしてくれる人の公募がきっかけで結婚。しかし、男は一方的に日本に帰国。シングルマザーとなった彼女は、アメリカと日本の二つの国で困難な人生を生きる。我が子を国境のない芸術家として育てるとともに自らの意志で未来を切り拓いて行くレオニーの生き方が人々に勇気と感動を与える。

◇アメリカの若い映画人たちは、小津安二郎や黒沢明を尊敬し、それを目指しているのに後が続いていないという。今、日本映画は人気アニメやヒットしたテレビドラマのハリウッド版映画制作に一生懸命。「使い捨て」文化となってしまったという。

◇初めての著書『ターニングポイント』(講談社)は、ライター時代から処女作『ユキエ』と第二作品『折り梅』100万人観客動員に至るまでを「生きることは出会うこと」のエピソードをまとめたもの。新作「レオニー」前売り特別鑑賞券とともに貴重なサイン入りで購入。サインをしてもらいながら、「松井監督は小津さんと黒沢さんのどちらがお好きですか」と聴いた。瞬間、愚問と気がついたが、「小津さん」と応えてくれた。「アメリカでは自分の映画は小津的と評価されている」と追伸してくれた。確かに時間をかけも自分の映画をつくる姿勢と作風には小津さんを感じる。松井監督は小津監督の再来かもしれない。

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2010年10月25日 (月)

■未来学者アルビン・トフラーの仮説は正しかった。

~私(たち)は一夜でユーチューブで世界のエンターテーナーになった。~

昨日、江東区民合唱祭に参加した。男性合唱「パパス・コーラス」出演での初舞台である。4月に入団し、半年後の初デビューである。第一部15チーム(10:00~12:30)、第二部16チーム(13:00~15:30)、第三部15チーム(16時~18:30)、合わせて46チームの出演である。指導の先生方はプロフェッショナルであるが、男性、女性、混声の合唱趣味のアマチャア・チームである。私の住む江東区の東雲小学校PTAのお母さんチームと、かわい子供たちチームの参加もあった。

パパス・コーラス(部員20名)は第三部の最後トリの出演である。曲目は「君といつまでも」と「大地讃頌」の二曲である。最後に「今日の日はさよなら」をお客様と他の出演者と一緒に合唱して終わった。

今朝、団員の一員からメールが入った。「昨日の合唱祭でのパパス・コーラスがユーチュブにアップされているよ」というメッセージである。パソコンを開いてみて驚いた。自分たちが楽しむため始めた事が一夜もしない内にユーチューブというメディアに乗って配信されている。自分自身がエンターティナーとなって自分が観客となってそれをネットで観ることができる。これは、古希になって初めての経験で、感動ものである。

この感動は、30年前に未来学者アルビン・トフラーが言っていた「プロシューマー」という言葉を思い出させた。

未来学者アルビン・トフラーは、1980年の著書『第三の波』で生産者=消費者プロシュマーという新しい概念を発表した。約一万年前に始った農耕革命を「第一の波」、18世紀に始った産業革命を「第二の波」と定義し、それに続く情報を中心した「第三の波」が訪れると予測した。「第一の波」の社会では市場が小さく、自分たちの消費のための生産であった。「第二の波」の社会では市場を通さなければならないので、生産者と消費者とが分離する。「第三の波」の社会では分離していた生産者(producer)と消費者(consumer)とが再び融合するという仮説である。具体的には、DIY工作やATM操作、今日で言えば、パスモチャージや携帯ゲーム、もんじゃ焼きやカラオケ演奏等、自分のために無給でする仕事。

トフラーはこれを「第三の仕事」といっている。「第一に仕事」は有給の仕事、「第二の仕事」は無給の家庭の仕事をさしている。

自分で歌って自分でネット(=新しい個人メディアの出現)でそれを観る、楽しむ、消費する。自分自身や家族(実際、女房が来ていた)や地域社会(東雲小学校PTAの父兄・母親と子供たちが出演)で楽しむ(=消費)の市場を通さない無償のエンターティナー(=生産)を行なう。この事実は、まさにトフラーが30年前に「仮説」した未来像の「現実」である。アルビン・トフラーの仮説は正しく、現実となった。

「パパス・コーラス」のホームページ(下記)を検索してみてください。わたし(「たち」)の演奏が観られます。ご感想をお聞かせ下さい。

URL http://www.papas-chorus-fukagawa.com

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