古川緑波(1903年8月13日ー1961年1月16日)は早稲田大学英文科在学中に菊池寛に招かれて文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社。宴会での余興「声帯模写」の評判から喜劇役者に転向。1933年(昭和8年)徳川夢声らと浅草に劇団『笑いの王国』を旗揚げした。同時期に活躍した喜劇役者・榎本健一こと「エノケン」としばしば比較されて「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った。1935年5月、東宝の前身PCLに引き抜かれてる。劇団名も「古川緑波一座」と改め、7月には有楽座に出演。丸の内のホワイトカラー層に支持された。座付作者に菊田一夫を擁し、俳優には渡辺篤、森繁久彌、山茶花究、三益愛子、徳山璉など当時の軽演劇役者が名を連ねていた。父・林寛も一座に団員であった。その当時アチャラカ芝居と大当たりした『ロッパ若し戦はば』や『ロッパと兵隊』の写真が母が残したアルバムにある。斎藤寅次朗監督『私は嘘は申しません』(新東宝・1961年公開)に十朱久雄らと並んで喜劇役者として出演している。ここでは化学の大学教授として冒頭に出ている。